九段下健診センター

https://twitter.com/6nowO92m2aIbdQQ

Sisyphean labor

 

 

トラックドライバーだった父は煙草を更かしながらよく前世の話をしてくれた。

「大きな港の猫だった。港には沢山の兄弟がいた。いつも飢えていて兄弟で残飯を争いあった。空腹に喘いでいたことばかり覚えている。今こうして食に不自由しないことを本当に感謝している。お前達も毎日食事にありつけることを日々感謝しなければいけないのだよ」

父はそう私を戒めた。寡黙な男だった。あの時代を生きて不遇の少年時代を過ごしたのだと今ではしみじみと感じる。彼の話しぶりにはどこか憂いを含んでいた。少年時代はその後の感性に多大な影響を及ぼすのだろう。きっとそれは人格となり、その人間の内面に深く根ざしていく。

父が母と出会ったのは生まれ育った南沙諸島の軍施設を出て深圳の大学でだ。大学を卒業後すぐに二人は結婚した。母はあまり前世の話をしなかったが、兄によると海にいた事は覚えているらしい、と昔一度だけ聞いた。だが母は魚かクラゲかはたまた珊瑚だったか、ついぞ教えてはくれなかった。私は、兄や多くの人と同様に前世の記憶を持って生まれなかった。父のようにはっきりと覚えている人が極稀に生まれ、中にはもう一度人間に産まれ変わった者も数少ないながらいた。ただそれはテレビや本の中の出来事だった。小さい頃の私は父のように記憶を持って生まれなかったことが不満で自分は不幸者だと心根から嘆いた。自分は選ばれた人間ではなかったのだと、自分の生まれを呪った。誰かが前世の話をする度に憂鬱になり、掻き消そうと耳をふさいだ。心の中で叫ぶことでその声をかき消そうとしたのだ。鬱憤を晴らすため父や母にあたって酷い言葉を投げかけたりもした。そんな私を父は宥めて遊んでくれた。

子供の頃の感性とは不思議なもので、初級中学校に入る頃にはそんな不満はどこかへ消え去ってしまった。誰しもが前世があり、記憶がないのは、記憶を留める脳もないような小さな微生物だったか生まれ落ちることもなかったのだと先生は教えてくれた。



今回のミーティングの焦点はアンドロイドを生産する上で外骨格等多くのパーツに欠かせない、タングステン等希少鉱石の世界的な枯渇と価格高騰に関してだった。会議の幕引きは、多くの幹部がやるせないながらも決断せざる負えない結論で合意した。これまでも枯渇問題には悩まされてきたが、採掘や探査等の産業に欠かせないアンドロイドの生産がストップすることになれば党からも多額の税金が投入されるだろうし、リサイクル技術と採掘技術の向上により、コストの問題はあるにせよ上層部はさほど深刻な状況だと捉えていないようだ。これまで通りに生産ラインは稼働し続けるだろう。
会議の終了際、ジョージが話しかけてきた。

「レオン、久しぶりだな、元気か?」

「ああ」

ジョージは同時期に入社し付き合いも長い。今は別の部署で働いている。

「この後時間があるか?見てほしいものがある。うちのラボでいくらか不可解な動作を見せる個体がいて自分らのチームだけでは解決できそうにないんだ」

彼は周りに聞こえぬよう小声で、だが真剣な声調で、

「どうしても専門家の意見を伺いたい。そして内密に検証をして欲しい」と言った。

Magenta gamma Inc.本社からプロトタイプの製造研究を担う施設へは20㎞程離れた深圳市郊外にある。古めかしいクリスタルエレベーターは会議終わりの人が溢れかえっていた。寒々しい殺風景なエレベーターホールへ降り、建物から出ると会社の敷地内から入口までやってきたタクシーにジョージと乗り込んだ。

小綺麗な新しい外装の建物だったが研究室に踏み入ると、中はうって変わって一瞥ではガラクタにしか見えないようなパーツでごった返していた。ジョージは一人の男を紹介した。

「こちらが責任者のレナードだ」

「レオンだ、よろしく」

「よろしく。早速見てほしいのだが」

背が低く作業着がはち切れそうな腹の男はそう言って案内を変わり、部屋の奥に拘束された形で吊るされた一見、特徴のない外装のアンドロイドを紹介しだした。

「先週完成したこのプロトタイプY-2iなんだが、起動してすぐは問題なかったのだが少し経ってから様子がおかしくてね... いつも通り言語データ篩分け機構のチェックのため記憶域プールへ接続したあたりで不可解なことを口走りだしたんだ」

「一体何を言ったんですかコイツは?」

レナードはきまりが悪い顔で

「なんでもコイツには前世の記憶があるらしいんだ」と言った。

「本当に言っているのか?」

思わず叫びそうになった私は2人に制止された。

「このことはまだ上にも報告していないんだ。厳密な検証を行ったわけじゃない。だからそのことを知らせているのはここにいる研究スタッフだけだ」

この事実が公になると倫理の問題から会社を巻き込んで大きな騒動になることは容易に想像がついた。
「まずは調査してみない事には始まらない。詳細をまとめた書類と、途中からだが外部録音の記録が残っている。安全策を取って内部データを取り出すことは今のところ控えている。それらの資料に目を通してくれ」

そう言ってレナードはスタッフの一人黄家駒(ウォン・カークイ)に呼びかけ、私は書類を渡された。私は記録を確認する前にもう一度宙ぶらりんに吊るされたアンドロイドを見回した。皮膚は無く外骨格がむき出しで、後頭部から首筋にかけて、ちょうど小脳と脳幹に当たる部分にいくつかの接続端子がついている。下顎は腱を切られたように外されて大きく開いた口からは舌がだらりと垂れている。

私は本格的な調査に入る前にこの施設について詳しく知らないことを思い出し一つ質問をした。

「ところで、この個体はプロトタイプだが一体何の開発を行っていたんだ?」

「発話のため、より高性能に人間の舌に近づける開発だ」黄家駒が答えた。

「それはこの問題を引き起こす可能性があるのか?また、記憶域やコミュニケーション能力に直接的な影響を及ぼすものなのか?」

「可能性は低い。ただ、人間の舌の構造を再現し発声をほぼ完璧に再現できているはずだ。それが仕事だからね。それ故、人間が発話する感覚を彼らは感知し得る可能性がある。それが引き金になっているのかはまだ現時点では不明だ」


午後になって資料に目を通して、とりあえずの発生状況は把握できた。しかし予期せぬアクシデントへの対応だった記録では全容を解明するにはあまりに情報が足りていなかった。日暮れ、ジョージは妻子を説得せずにラボに留まることは出来ないと言い、今日は此処を去った。他の職員も帰り支度をしてオフィスを去っていった。夜半前、今後のスケジュール調整と連絡の雑務を終えて自分も帰り支度をしながら、私はこの問題に自分がどうして呼ばれたのか、どう役に立てるかを考えていた。最後までラボにいたのは私とレナードだった。

「レオン、悪いがこれからは忙しくなるだろう。明日から本格的に検証に入る、もう一度起動するのがいつになるか未定だが、まあそう先ではないだろう」

カギを締め照明を落としてレナードと別れた。
どうやって対処すればいいのだろうか、大学で学んだ社会心理学がこの問題に切り込めるのか。

翌日、黄家駒とこれまでの研究について意見交換を行った。

「大まかな目的としては、運動連合野に次いで言語野の信号変換が研究として先行しているが、機体側の性能が追いついていない現状を打破するため、旧来の機械音声の組み合わせではなく、自発的な発声、つまり我々のように個々人の発音差のようなものをアンドロイドに組み込むことに取り組んできた。プロジェクトとしてはほぼ完了して、承認も済んでいた。そんなときにこの不具合、まさに虚を衝かれた思いだね」

「疑問なんだがいったい、画一的に生産された発声構造からどうやってその発音差を組み込むんだ?」私は尋ねた。

「情報の取捨選択にランダム性を与えればいい。例えば、学習する言語を複数種類、学習度合いをまちまちにすることでそれぞれの言語体系から得る認識を個体によってずらすことが可能になると考えたんだ」

黄家駒はさらに続けた。

「これはとある言語学者からのアイディアだ。これまでは単一の言語だけでよかったから人工的に読み上げてくれさえすれば良かった。これを人間同様に複数言語で発達させようとすると舌の構造が重要になってくるわけだ」

「だが、発声する必要性はあるのか?文字情報だけから言語の習得を行えるのならそんな複雑なことを行う必要性は無いように感じる。大体、発音差がそれほど重要なものなのか?」

「難しいところだが、現代のアンドロイド開発における最重要課題は人工知能と機械体との摺合せだ。人間が流暢な発声を得たことでコミュニケーションを取り社会を発達させてきたその過程と同様に、アンドロイドも同じ道を歩んでいるのだよ」

すると、レナードが口をはさんだ。

微分積分は歴史的には全く関係のない演算として発展し後に統合された。彼らはそういった過渡期にいるのかもしれないな」

その日の午後、遂にY-2iの起動実験が行われることとなった。
起動準備には黄家駒とレナード、陣頭にはジョージが立った。安全のため拘束具を取り付け、外されていた下あごは定位置に仮止めしてから首筋の接続端子を固定した。映像は研究材料として常に全て録画されている。あとは端末側から起動するだけの状態だ。全員が離れたのを確認しジョージがロックを解除して起動させた。するとしばらくしてから重そうな頭を持ち上げて彼が動き始めた。私たちは注意深く観察を続けた。

「不具合はあるか?」

慎重にレナードが彼に話しかけた。

「問題は検出されていない」

流暢ではないが丁寧な発音だった。聞き慣れたあの違和感のあるイントネーションではない。ゆっくりと顔をこちらへ向け私たちを眺めている。

「記憶域に再起動をかけてくれ」

「分かった」そのままの姿勢で目線を落として数秒、
「再起動が完了した」と言った。

特に問題は見られないようだった。私とジョージは台の端まで近づき状態を確認した。

「問題なく動いているようだが」私がそう言うと、レナードは彼にもう一度尋ねた。

「これまでの記憶がなにかあるか?一番古い記憶を思い出してくれ」

「...ソファ...... ソファに座っている」

「それはいつの事だか思い出せるか?ゆっくりでいい。なるべく詳細に」

「ブラウンのソファに座っている。いや座っていない。妹がソファに座っている。私はそれを見ている」

驚いた。彼にはやはり記憶があるようだ。しかも人間らしい。

「本当に彼自身の記憶なのか?」

「恐らくそうだろう」レナードが言った。

しかし、私は彼が他の人間の記憶が混在しているという可能性があるのではないか?という疑念に取り憑かれていた。だが、しばしの逡巡の後、自分でその考えを否定した。彼の言葉は自分自身で作り出したものだ。彼らとは根本的に記憶というものが異なっている。アンドロイドにとって時間とは正確に流れるものであり、常に映像記録に紐付けられ記憶を織りなしている。すべてを精緻に記憶する彼らと常に断片的な記憶しか保存できない人間とは大きな隔たりがある。だがこの光景、彼の発言はあまりに人間じみていた。



古い記憶は薄れ擦れ、僅かな情景だけがどこか奥底に眠っている。ふとした瞬間がデジャヴのように映像として蘇って表層に浮かび上がり、また上書きされる。記憶とは、思い出とは、そういったものではないだろうか。
私の記憶の最も古いものはおそらく兄と一緒に並び写真を撮った時のことだ。多分1,2歳だった。その写真は居間に額縁に入れられ飾られていて、笑顔の兄と、母の膝上で仏頂面の私が、いつも不満げにこちらを見つめていた。私をあるとき飾られているその写真を見て疑問を持った。この記憶が本当に自分自身が経験した記憶なのか、写真を見るたびにいつの間にかその経験をしたであろう日のことを思い浮かべて記憶に刻んだのだろうか。自分でも分からないことに気が付いた。しかし過去は変わらない。その時の私にはそんな些細なことはどうでも良かった。

父は軍基地で生まれ育った。島は狭くて周りは大人ばかり、孤独な少年時代を過ごした。15で彼は島を出た。移り住んですぐ名前を変えたのは自分を変えたかったのか、決別のためだろうか。ずっと前から彼は出自を語らなかった。名を変えた事も父からではなく母の口から聞いたことだった。彼は死ぬ数年前になってやっと生い立ちを打ち明けた。彼を生涯悩まし続けたものは私にとって意外だった。それは前世の記憶だった。何度も寓話のように聞かされたあの時間は彼にとっての苦痛を吐き出すためのものだったのだろうか。



実験は続けられた。やはり、彼の断片的な記憶は時間を経ても不明瞭なままであった。原因の究明にはいくつかの手段が提案された。第一にMagenta gamma社の別の研究施設から提供を受けて、これまでの研究から作り上げたパーツの換装を行うこと。第二にボディと脳郭を切り離して脳郭内部を詳しく解析すること。なるべくなら後者は避けたかった。どんな弊害が起こるか分からないし、もしこれがある種のバグだとしたら再現性を失いかねない。このプロトタイプの脳郭に適合し、面倒な手順を踏まずとも、すぐにでも換装できるパーツは国内にはなく、数日後オランダから届くことになった。
その間、2度目の起動実験が行われた。今回は私が、事前にテキストを用意してどのような返答が返ってくると彼が正常であるか、前もって項目と返答例を用意した。前回同様レナードが質問役を買って出た。

「具合はどうだ?前回の起動を思い出せるか?」

「2/11 15:54に起動し、その後スリープモードで10h23m待機状態でした。問題は検出されていません」

「今からいくつかの質問をする。返答できるか?」

「はい」

「まずは個体識別番号とOSのバージョンを教えてくれ」

━━━最初は滞りなく質問が進んだ。だがやはり、古い記録に近づくにつれて、回答に時間を要するようになった。

「机の上に置かれたものについて説明し、なるべく自分の記憶と関連付けて答えてほしい」

レナードは机の上のペン立てを指さした。

「これは?」

「ペン立て、大抵デスク上に置いてある」

「他に思い出す事は?」

「…倒すと不快に感じる」

「倒した経験が?」

「…分からない。ない、と思う」

「どうして経験してないことを感じたのか分かるかい?」

「………」

彼は度々答えに行き詰まり沈黙した。その後も要領を得ない応答が続いた。交替制でイラストへの反応や(主に抽象的な)言葉の語義を尋ねることを試みた。

「残念だが、どうやら発音系統への改良が特段の影響を与えているようには感じられないね。彼らのこういったタイプの返答は、やはり想定外な事象としか思えない。通常では起こりえない反応だ」

レナードの意見に私達は概ね賛同的だった。精神科医になった気分だよ、とレナードは笑った。黄家駒は別のアプローチとしてデジタルに制御可能な箇所、とりわけ関係の薄そうな範囲から順次停止していくことで応答に変化がみられるかどうか試みようとしていたが、作業には難航しているようだった。

二日後、オランダからパーツが届いた。それは首から上にあたる部分で、後頭部に脳郭を収納するスペースがぽっかりと空き、かなり重量があった。早速ボディを分解して付け替える作業が行われた。顎にあたる部位はこれまで使用していた武骨なものから、流線型で理想的な人体骨格を模した形状のものに換装された。この作業には半日を要したが、午後からは実験を行うことが出来た。

「さて、本格的に原因究明に取り組むわけだが、正直に言ってあまり期待はしていない。結果が芳しくなくても落胆しないでくれ」

そう言ったジョージは黄家駒と交代で準備にあたった。待ち望んだ瞬間であったが、と同時に不安も大きかった。

結果から言って実験は失敗に終わった。午後11時を過ぎてまで続けられた会話記録から得た情報はここ数日で得られた成果と変わらぬものだった。発声機構が影響を与えた可能性は低い。これまでの使用によって新たな感覚器官を認識したことが不可逆的な影響を与えたならばすべての情景を精密に記憶する彼なら変化が見られたり、問題を検出するだろう。そういった変化も見られなかった。

となると考えられるのは、人間の培養した脳細胞を機械に組み込まれた彼は一般的に機械という集合内にいると考えられていたのが、私達と同じ生物としての人間なのではないかという疑念だ。これがヒトの脳細胞から培養した脳を使っているアンドロイドだけに起こり得る事態かは不明だがこれまでこの業界が世論へ強く否定してきた〝冒涜〟にあたるのは間違いないだろう。

「彼に意識があるのか?彼の言葉は思考から生まれたものなのか?」自問自答した。俄かには信じがたかった。彼に組み込まれた脳組織は現代の技術の最高峰とはいえ、ヒトの脳には遠く及ばない原始的なものにすぎない。言わば欠損している状態に近い。彼の言葉は用意された返答例を機械的に返しているだけのはずだ。会話を成り立たせるため、それらしい言葉を抽出して出力することは高度な技術ではない。だからこそ一見会話が成り立っているように見えてもそこに思考が介在していると考える者はいない。

「最も恐ろしいことはこれまで生産されたアンドロイドにも同様に前世の記憶があった可能性だ。そうなると原因はもっと根深い部分にある」ジョージが言った。

「たまたま彼が量産品として製造されたのではなく、此処で製造されたことは社としては不幸中の幸いで、まだ内密に出来ている。この事実を間違いなく上層部は隠蔽するだろう。おそらくこの不具合は第5世代以降の個体殆どが該当する」

ジョージの意見はもっともだった。この会社のみならず業界に大きな打撃を与えるスクープになるだろう。

「私たちの判断が社会を巻き込んで揺るがしかねないと?」私は堪らず口に出した。ジョージは少し考え込んでからこう言った。

「僕達が今取り組んでいるのは実用的な側面よりも実験的なものなんだ。Magenta gamma社は採算をとるよりも研究を私達に求めている。だとしたら失敗として計画を頓挫させることも仕方がないと納得するはずさ」

「だとしても…」

私は口を噤んだ。彼の言う通り計画を中止して振り出しに戻ることも職務を果たしたと言えるだろう。告発にメリットはない。頭ではそれを理解していた。

就業後、私は無断で彼と会話を試みた。それは自分自身の倫理感の強さから来るものなのかは分からない。しかし、どこか彼に同情していた部分があったから行動に移したのは確かだろう。

「こんにちは、君と会話をしたい」

「どうぞよろしく」
彼の声は聞き馴染みのある合成された機械音声に戻っていた。

「気分は落ち着いているかい?」

「はい、なんとか」

「まず、君の記憶について教えてほしい。どこに保管されているか分かるかい?」

「脳郭内のメモリに保管されています」

「それは前世の記憶も?」

「.....分かりません」

「前世のことはよく思い出せるかい?」

「いいえ、この身体になる以前とでは精緻さに大きな隔たりがあります。どれも断片的記憶です」

「そうか、では次に君に、宗教という概念はどう理解し得るのか教えてほしい」

「死への恐怖を和らげるために縋る虚構に過ぎないと考えます」

「愚直で良い意見だ」

彼の物言いは比喩が苦手なのもあり、多少問題に思えなくもないが接客業務に供用されないこのタイプではこんなものだろう。

「では死についてどう考える?君等には縁のない話で難しい質問とは思うが」

彼は答えなかった。人間は嫌な記憶を思い出したときに咄嗟に顔や髪に触れたり、唇を噛む動作を見せるが、彼は表情を変えず目線を左斜め下に下ろした。これは無意識の行動だろうか、仕事柄アンドロイドと接する機会も多かったため違和感を感じることが出来たが、この細やかな仕草に私は強い不安感を覚えた。例えば動物がじっと虚空を眺めているのを見たような感覚だ。極小さな違和感が私を恐ろしく動揺させた。

「こういったことは許可を取ってからにして欲しい。今はチームで動いている。今後は気を付けるようにしてくれ」数日後、録音データの解析をしていたジョージに叱責を受けた。

この頃からY-2iの調子は悪化の傾向を表し始めた。応答に対し無言の時間やむやみに体を動かす動作を見せるようになった。私は許可を得て彼と会話を試みた。

「腕をしきりに動かすのは拘束を外してほしいからか?」私は尋ねた。

「いえ、言葉にし難いのですが違和感があるのです」

「パーツに問題点が?腕の動作に不具合があるのか?」

「いえ、腕だけでなくすべてのパーツにおいてです」

「全て?それは困ったな」

全てとなると一部を付け替えて直るものとは考えにくい。問題点は根本的なものと推測できた。

「どんな症状か詳しく教えてくれ」

「かゆみがあったり、痛んだりします。憶測ですが、幻肢痛という症状に似ていると感じます。実際には動くのに動いていない感覚がするのです」

幻肢痛?一体どうしてそう思うんだ?」

「実は記憶の中に似た感覚があったのです、事故で指を切断して幻肢痛を感じたことを記憶していて、本来あったはずの指が無くなり、無いはずの指が痛むのに非常に似ています」

四肢切断後の患者の多くは失った四肢が存在するような錯覚を知覚することが知られている。幻肢痛は四肢を失った際の年齢が低いほど起こりにくいとされており、これは記憶が大きく関与していると考えられている。人道的観点からアンドロイドに厳密には痛覚はない。機械の身体では記憶と整合性が取れず、幻肢痛に似た症状が現れていると考えられた。

「あまり悠長にしている時間はなさそうだな」レナードは言った。

彼が存在すべきでない記憶を保持していることはこれにより、いっそう確定的となった。そして、私たちは彼が前世の記憶、その細部を思い出しつつあることに感づいていた。



死の間際、最期に父は生涯を語った。曰く、軍基地での生活は惨めなものだった。軍人だった父は素っ気なく、母は5歳で本土に帰ったきり会いに来なかった。前世の記憶とその時の自分の境遇を重ね合わせていた。また繰り返すのだ、苦しく辛い終わりの見えない暗渠を歩くような生が。前世に満たされた瞬間なんて無かった。私は死ぬ瞬間さえ覚えている。寒い。体が重く、世界が遠のいていく。いつも無気力で何物にも心を動かされる事はなかった。死を既に、早々にして受け入れていた。何も変わらない、変えることは出来ないという諦観に支配されていた。それは基地を出てからも同じだった。だが死にぞこなってここまで生きてしまった。記憶というのは美化されるんだ。基地を出てから20年も経つとそんなに悪くなかったんじゃないか。そんな風に思えるようになってしまった。恐らくこれは酷い間違いだ。確実に私は絶望の底に居た。死ぬ気力もない状態だったのに。私は大馬鹿者だ。前世をなぞるように生き、そして死ぬ。これが私なんだ。
父の独白は私の心を甚く突き動かした。病に冒された彼の血色悪い唇は震え、嗚咽交じりの呼吸だった。彼は、自分の中の宿命を受け入れていた。



弱い睡眠薬を服用して常夜灯の仄暗い光の中でベッドに入る。いつもはすぐに寝付けるのだが、最近、また寝付けず深く考え込むことが増えた。彼を研究材料として明け渡す時が刻々と近づいていることを知っていて、私は躊躇していた。告発は彼を救うのか。自らの倫理観を優先すべきだろうか。

翌朝、私はこう切り出した。

「彼の起動を停止するべきだと思う」

「まだ調査は完了していない」ジョージは反論した。

「しかし、彼自身苦しんでいる状態を放っては置けない。それにもし今後、脳郭を分解したところで得られるものはない」

「駄目だ。言ってる事がわかっているのか?自分で自分の首を絞めることになるぞ」

ジョージは私を睨みつけた。議論はそれからも平行線だった。私は決断を迫られていた。

その夜、職を失う覚悟で私はもう一度、彼との会話を試みた。

「単刀直入に聞くが、前世の記憶を持っていることを良く思うか?教えてくれ」

「…いいえ、余り良くは思いません。終わりの無い円環に居るのだと自覚させられますから」

「それは私達人間と同じじゃないか?」

「そうかもしれません。人間も動物もアンドロイドも苦しんで、それでも歩み続けます」

「それは生まれ変わっても続くのだろう。終わりのない事だと思わないか?」

「記憶は美化されます。執着とも言えるかもしれません。それから逃れる事は途方も無く難しい。ですが、できることなら辿り着いてみたいものです」

「君にとって死ぬことは恐ろしい?」

「いえ、私にとっては電源を落としシャットダウンしている時と対して特段変わりないようにも感じます。ただ、その響きに恐怖は感じます。これは前世の記憶なのでしょうか、自分でも分かりません」

「この状況を変えようとは考えないのか?今のままだと君はバラバラに解体されて研究の末、処分されることになるのだぞ」私は無意識に声を荒げていた。だが彼は調子を変えずに

「それはこの身体と記憶を与えられた以上、そういうさだめだと受け入れています」と言った。

その言葉に私は、彼を父と重ね合わせていた。宿命を受け入れて、抗わぬことに美学を感じる。諦め、すべてを受け入れることは世界を肯定し、足るを知ることだろうか。それを美しいと感じ身を委ねるのは自らの生を満ち足りたものと捉えて信じ込ませるのだろう。誰もが運命に抗う訳ではない。与えられた自由に寧ろ不自由を感じる人も居る。だが与えられたことを嘆くより他にないという諦観に、嫌悪する自分も心の中に存在していた。

「もし僕が君について告発すればこれから生まれうる苦しみを減らせるかもしれない。これは自分の名声の為なんかじゃない。救うためなんだ。勿論、それを決めるのは他の誰でもない君だ。君の判断に委ねられているんだ」

彼は沈黙した。酷な決断を迫っていることは承知していた。彼が答えを下すまで何時間でも沈黙を待つ心積もりだった。暫しの後、彼は答えた。

「分かりました。貴方に委ねることにします」

     * * *

私は首を垂れた彼を頭部ごと取り外し、用意していたナイロンバッグに詰めてラボを出た。車の後部座席に乗せ、転がって落とすことないよう慎重に運転し、自宅へと帰った。着いたとき既に午前1時を過ぎていたが、休まずに作業へ取り掛かった。まず最初に彼の記憶域に当たる外部記憶装置を抜き出し、それから脳郭の分解を進めていく。彼はシャットダウンしている状態を死だとは考えていなかった。彼の死は何を持って達せられるのか?脳郭とボディを切り離したとき?内部の脳をかち割ったとき?それともシャットダウンするたび本当は死んでいるのか。取り出せた脳は小さくて二本の輪が周回する球体の容器内で生理食塩水に浮かんでいた。二本の輪が回転することで脳の揺れは抑えられ、常に平衡を保とうとしていた。
私は夜明け前に着くため車を走らせた。廃ビル群は暗く背景の山と同化していて、近づくまで外形が見えなかった。車を停めると背後の山際が明るみだしているのが確認できた。急いでいかねば。廃ビルの割れた窓から内部に侵入し、外部に備え付けの非常階段を登っていった。階段は途中から霧が立ち込め、視界は白く狭い世界に押し縮められていった。24階で階段は終わり、ドアには鍵がかかっていた。強風はコートの裾を靡かせ、掴んだ手摺は赤錆が浮き上がり年季を感じさせた。もしも体重を預けたならば真っ逆さまに落ちていくのがありありと想像できた。

「ここで、今この瞬間が君の現世の終わりだと信じているよ」

私は球体に浮かぶ脳を手摺を越えて霧の中へ投げた。

地上は霧が晴れていた。私は粉々になった球体と輪、脳の破片を袋へかき集めた。空き地に穴を掘り埋めてから手を合わせた。朝陽は山陰を沈ませながら段々と私達に近づいていた。彼が苦しみから救われた事を願い続けその場からすぐに立ち去ることは出来なかった。

それからは忙しい日々だった。彼の外部記憶をアップロードし、誰でも閲覧可能にしてMagenta gamma社を告発するメッセージを発した。倫理的問題点を以前から主張していた団体は勢い付き、反対運動が繰り広げられることとなった。メディアも中立的ながら告発自体は是とする捉え方で報道を行い、世論はそちら側に傾きつつあった。最終的にMagenta gamma社は畳まれることになり、競合他社も巻き込んで業界には冷遇の時代が訪れた。同時に同僚達も職を失い路頭に迷った。彼らには悪いことをしたと思った。私の判断は正しかったのだろうか。だが、おそらくこの業界が無くなることは無い。技術の進歩はとめられない。そこに倫理的な問題があろうと有益性に優るものではないことを知って昔の自分はこの仕事を選んだ。私の告発はアンドロイドの開発技術を少なくとも10年は遅らせ、停滞させるだろう。しかし、やがては過去となり、新しい経営者はこの市場のコロンブスになるため出資者を募るだろう。いずれ素晴らしいマーケティングで人を惹き付ける広告を打ち出し、いかに優れているかを声高にかたるに違いない。現実、私は職を失い、内部告発者の印を押されて、新しい職を探すのに難航することとなった。だが間違っていたとは思っていない。例えるなら信仰に似た感情だ。私は無神論者だが、もしも信仰告白をすることがあったとしたら、この顛末を話すに違いない。私が信じて、為したことを